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聖霊によって

招 詞:アモス書 7:15

賛美歌:17 番・418 番・90 番

交読文:詩編 107:17〜22

聖 書:使徒言行録 13 章 1〜12 節

 

わたしたちは、この世界の中で、それぞれの場所において、日々を歩んでいると思います。

今も役割を担って、会社や家庭で働いておられることでしょう。

クリスチャンとして生きるわたしたちは、どんな場所で歩んでいたとしても、神を信じ、キリストに従って生きようとしていると思います。

 

カトリックの修道女であられる渡辺和子さんというシスターをご存知ですか。

異例の若さでノートルダム清心女子大学の学長となった方で、1984年にマザーテレサが来日したときには、その通訳を担われた方です。

渡辺さんはいくつかの本も出版しているのですが、彼女の紡ぐ言葉の一つ一つが優しく、丁寧で、誠実で、等身大で、学生の頃から好きでした。

その本の表題の一つに、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があります。

 

彼女は、思いがけず、学長という大きな役職を与えられました。

その役職を担って歩む日々は簡単に想像できるものじゃありません。

大きなものを背負って過ごす内に、彼女は「くれない族」になったと言います。

「あいさつしてくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」

そうして自信を喪失して、思いつめていた時、ある宣教師の方からいただいた詞の冒頭の言葉が、この「置かれた場所で咲きなさい」でした。

 

「置かれた場所で咲きなさい」

派遣とは、そういうものではないでしょうか。

咲くべき場所は、神さまによって導かれていくものです。

それは時に、置かれている本人にとっては、アスファルトの上のように生きづらく、成長が難しいこともあるでしょう。

置かれた場所で咲くまでには、本人にとっては、風にあおられて飛ばされるように、思いもがけないところへ飛ばされ、なぜこんなところに、と思うこともあるかもしれません。

でも、どのような場所にあったとしても、神さまの愛が雨のように降り注がれています。

 

どこが咲くべき場所なのか。

それを問い、神の答えを願うとき、その思いはあなただけのものではありません。

たくさんの人の祈りと、想いと、願いが寄り添っています。

 

高校生の時、関学の神学部伝道者コースを受験するには、教会からの推薦が必要でした。

大学生の時、大学院の伝道者コースを受験するには、教会からの推薦が必要でした。

そして、牧師になるために、日本基督教団では教師検定試験というものを受けます。これを受験するときにも、教会からの推薦が必要でした。

 

神学部という特殊な環境で学び、牧師という特殊な仕事に召されて応えようとするとき、そこには教会からの推薦が不可欠でした。

 

教会からの推薦とは、教会の祈りです。信徒たちと牧師の祈りです。

神から召されて歩んでいると、そして神の道具として用いてもらいたいと願っている器だと、

祈りの中で言葉が紡ぎ出され、推薦文というものが書かれていくのだと思います。

 

実際には、どのような言葉が書かれていたのかを私は知りません。

でも、推薦をしてくれた、祈りの中に覚え続けてくれてきた教会とそこに集う方々、先生方は、

今も私のことを覚え続けてくださっています。

 

でも、この祈りの中で召し出されて行くという経験を思い返した時、それは、神学部や教師検定試験にのみ関わるものではないことに気づきました。

高校受験のときも、バイトの面接のときも、部活動での活動の中であっても。

すべての節々の、人生の分岐点や歩みの経過の中で、誰かが祈りとりなし、聖霊によって神に導かれていたのだと、思わされたのです。

 

だれかの祈りの中に置かれて、だれかの祈りの内に神から遣わされていく。

今、私たちが礼拝や祈り会や日々の中で祈るとき、その祈りの内に、その場にいない方のことも、なかなか会えないかたのことも、わたしたちの輪に連なる方を、覚えて祈ります。

そして、それぞれが置かれた場所で豊かに咲くことができるようにと願っています。

こうして、だれかの祈りの中に置かれて、だれかの祈りの内に遣わされてきたし、このさきもそうして遣わされていくのです。

 

それは、この使徒言行録の時代にもあるものでした。

 

アンティオキアの教会には、預言するものや教師がいました。

彼らは礼拝を守っていました。

そして、断食は祈りと結び付けられるものですから、熱心に祈りを共にしていました。

その中で、「聖霊が告げ」、バルナバとサウロが選び出されました。

選ばれた二人の上に、教会の預言するものや教師たちは手を置きます。

これは、「按手」と言われるものです。

ユダヤ教から継承されたもので、神の祝福と力が、手を置くものから置かれたものへと伝えられるという象徴的な儀式です。

新約聖書では、3つのことのために行われます。

それは、1聖霊を受けるため、2新しい奉仕への任命のため、3癒やしを行うためです。

 

今日の箇所でバルナバとサウロに行われたのは、すでに聖霊を受けたうえでの、2番。

新しい奉仕への任命のためのものでした。

祈りによって、召しを受け、祈りによって派遣されていきます。

 

派遣は、個人的な思いや願いにとどまるものではありません。

どこかに遣わされていくとき、祈りに応える形で神は聖霊を送り、道を示します。

周囲のものたちの熱い祈りの中で指し示され、遣わされていきます。

 

バルナバとサウロが派遣された先は、キプロス島でした。

東地中海に浮かぶ島で、重要なユダヤ人の居留地。

さらには、バルナバの故郷でもある場所でした。

故郷に戻り、福音を伝えることが、彼らの遣わされたところだったのです。

 

バルナバとサウロの目的地は、パフォスです。

パフォスは、キプロス島の西側にあり、ローマの行政所在地でもありました。

その道中、彼らはユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせていました。

それは、このキプロス島の地方総督セルギウス・パウルスの耳にも入ります。

彼らと出逢えば、「本当に神のことを何か聞けるのではないか」と思わせました。

 

地方総督は、サウロたちの話を聞こうと思います。

しかし、それに立ちふさがるものがいました。

それがバルイエスという魔術師でした。

 

バルイエスは地方総督をサウロたちから遠ざけようとする。

バルナバやサウロと出会うことに危機感を抱いた。

自分が「偽物」だとバレてしまうから。

 

何が偽物なのか。

それは、「偽預言者」とあるように、バルイエスは神の御心に従うものではなかった。

 

神の御心よりも、自分の利益が大事。

神の招きよりも、自分の地位が大事。

神よりも自らが勝っていると考えてしまう。

それは、神に反抗するものたちの特徴です。

 

バルイエスの姿は、わたしたちの心のうちにある「偽物」の姿です。

神の御心に問うのではなく、自分の利益や地位を優先して、神の言葉をはねのけようとする。

神からの愛のまなざしから目をそらし、自己中心的な歩みを進める。

さらには、神を求める心を否定し、真実を知ろうとする気持ちを砕こうとする。

 

この、傲慢さは、わたしたちの心の内にあるものです。

 

高校受験、合格したのは、自分だけの力のような気がしていた。

バイトでいい評価を受けたのも、自分の実力だけだと思っていた。

すべては自分だけの力?

自分が有利に立つために、だれかを排除することが正しいのか?

 

そんな傲慢さを抱くわたしたちに、

傲慢さを象徴するバルイエスに、サウロは叱責します。

「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、

お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。」

 

神から遠ざけようとする言葉は、偽りと欺きに満ちたものです。

利己的な思いは正義の敵です。

 

そんな、傲慢さをもって神にまさるかのように語るバルイエスから、サウロは光を奪いました。

「お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」

 

それは、孤独によって、一人閉じこもることを願ったわけでもない。

人との関係を絶って、姿を消してしまうことでもない。

なぜなら、バルイエスは、「歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した」からです。

だれか手を引いてくれる人を探す。

それは、たった一人では歩めないということを知る、ということです。

 

私は高校受験やバイトの上で、自分の傲慢さに気づくことなく歩んでいるときがありました。

全部自分の実力。全部自分だけの力だと。

 

でも、本当はそうじゃない。

 

私は時を経て、大学に進む時、大学院に進む時、牧師と歩む時、教会からの祈りの内に支えられていると強い実感を持つようになりました。

同じように、高校受験にしてもバイトや仕事にしても、だれかの祈りに支えられ、神からの派遣によって、聖霊によって、歩み続けてこれたのです。

 

「召命」も「派遣」も、牧師という道だけのものではありません。

どのような仕事であっても、家庭の中であっても、学業の場であっても、だれかの祈りに支えられ、神から召命を受け、聖霊が送られ、派遣されて置かれていると私は思います。

 

でも、それに気づけない状態は、バルイエスのように、日の光を見れない状態です。

主イエスという光を見ることもできず、見れていないことさえも気づかずに歩むことになっているのかもしれない。

 

でも、それは完全なる排除ではありません。

あまりに強い言葉の叱責によって、見落としてしまいそうになるけれど、もう一度サウロの言葉を見つめましょう。

「お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」

 

「時が来るまで」とサウロは言います。

それは、神のよって目が開かれる時、光と出会うときが必ず訪れるということです。

 

神のことを疎むことがあっても、神をはねのけようとしても、自分のことばかり見ていたとしても、必ずいつか、時が来るでしょう。

神の愛が注がれていることを、神の光に照らされていることを知る「とき」が。

傲慢にも自分を過大評価しているバルイエスを、だれかを用いて、だれかに手を引かせて、だれかに支えられていることを知らしめようとされます。

一人で生きてるんじゃない、神のみ手と愛のつながりによって生かされているんだ。

 

そうして、時が来れば、目が開かれ、神の御心に問うて歩むものとされていくのです。

 

このサウロとバルイエスとやり取りを見て、地方総督は信仰に入りました。

それは、サウロがバルイエスの視力を奪ったからではありません。

この出来事の表だけを見て、怯えて信仰に入ったわけではない。

 

「主の教えに非常に驚き」とあります。

この出来事を通して、イエスの教えが証しされていることに彼は気づきました。

バルイエスの傲慢を打ち砕き、愛を知り歩みだす導きをした、ということです。

そして、必ず「時が来る」と、神の御心を知るようになるとサウロたちが信じたからです。

 

今、バルイエスを弱くしたサウロたちの言葉がわたしたちにも迫ってきます。

「お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。」

傲慢さによって、まっすぐに歩めなくなってしまっていないでしょうか。

 

こう語るサウロもまた、傲慢さによって、キリスト者たちを排除し、弾圧していたものです。

サウロもまた、目を見えなくされ、イエスが遣わしたものによって光の中に連れ込まれたものです。

 

そのサウロが今、同じように傲慢さで神を退けようとするものに対抗しています。

聖霊によって、遣わされた場所、置かれた場所で。

 

今日の箇所によって、わたしたちは示されています。

バルイエスのように、傲慢に歩むことがないようにという警告を。

そして、サウロのように、聖霊によって指し示され、置かれた場所で証しするものとなれという派遣の祝福を。

 

 

 

祈りましょう。

いつの時代であっても、聖霊を送り続け、必要な時を定めてくださる神さま

 

あらゆる形で注がれるすべての愛に感謝いたします。

わたしたちは、祈りによって互いを支え合い、祈りによって神に問いながら日々を生きています。

だれかの祈りによってあなたにとりなされ、わたしたちは支えられています。

わたしたちのことを想って祈ってくださるすべての人々にあなたの祝福を与えて下さい。

 

わたしたちは、ときに、傲慢さを心に抱き、神の御心から遠ざかろうとしたり、遠ざけようとしています。

あなたの光を見出すことができていないときがあるわたしたちを憐れんで下さい。

そして、あなたのみ手によってベールを取り除き、あなたの愛と光をしっかりと見つめられるようにしてください。

そして、聖霊によって導かれ、置かれた場所で、あなたの証人として、しっかりと咲き誇ることができますように。

アーメン。