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神は約束に従った

招 詞:エレミヤ書 29:11

賛美歌:355 番・149 番・515 番

交読文:詩編 33:4〜11

聖 書:使徒言行録 13 章 13〜25 節

 

例えば、この絵はなんの絵だと思いますか。

この絵は、ある作品の一部です。全体を見てみましょう。

 

最初の一つの絵では、くだものの絵だと思っていたものが、全部の絵を組み合わせると、本当は人を模していたことがわかるように。

これは、アルチンボルドという画家の作品です。

彼の絵は、とても不思議な構造をしています。

近づいて見ると、一つ一つはくだもの。だけど、遠くから見ると、人の顔。

 

旧約の時代から語られてきたこと、旧約聖書に置かれている文書たちは、この絵のようなものです。

時代、場所、歴史認識、信仰によって育まれた果物のような一つの作品ば、大切にされてきました。

 

しかし、イエスの到来によって、従来「そのまま」果物として大切にしてきたものは変わります。

それぞれの果物として見られてきたもの、言葉や約束が、集められ、新たな作品を生み出そうとする。

 

旧約聖書の一つ一つの作品を通して、

神の慈しみや神の怒り、神の恵み、神の救いが現されていました。

それが今、イエスという真ん中のピースを得ることによって、「救いの完成」という新たなものが示されました。

アルチンボルドの絵が人の顔だとわかるように。

 

旧約の頃から、神は民と向き合い、怒りを抱いてもその深い慈しみによって時に受け入れ、見捨てることなく共におられました。

そして、この新約聖書の時代では、ひとり子であるイエスをこの世界に送り、その愛を間近に、そして模範として示してくださいました。

 

でも、このイエスという救いの完成、神の愛の証は、人々に簡単に受け入れられることはなかったとパウロは言います。

 

あなたの救いのために、遣わした我が子を、あなたがたは「自分たちのため』と言って殺してしまった。壊してしまった。

でも、神は、あなたたちに与え、それなのに拒否し、排除した存在を、死のままにすることはしませんでした。

 

神が選び取ったダビデは死んで、墓に納められ、先祖の列に加えられました。

しかしイエスは。

死んで、墓に収められましたが、そこにとどまることはありませんでした。

復活という方法によって、神の愛が終わることがないこと、永遠の命がたしかに約束されていることを証したのです。

 

この喜びの知らせを、パウロたちは宣べ伝えようと、旅を進めていきます。

先週はキプロス島のパフォスで伝道を行いました。

そこからさらに600キロもの行程を経て、今日のピシディア州のアンティオキアという場所につきます。もともと彼らのいた、ガラテア州アンティオキアとは別の場所です。

600キロというと、だいたいここから福岡までの距離です。

新幹線や飛行機もある今でも遠く感じるこの距離は、当時ではどれほど遠い距離だったか想像もできません。

その道中には強盗がいる危険な区域もあったし、自然の中による危険もあったことでしょう。

でも、その歩みは守られ、遠く離れた地で宣教をすることが、かなったのでした。

 

この長大な距離を旅した伝道者である「パウロ」を皆さんはよくご存知かと思います。

こうして自ら足を運び、自らの口で言葉を紡いできた場所だからこそ、パウロは捕らえられても、牢獄の中からであっても、覚えて祈り、皆さんご存知の通り、何通もの手紙をしたためていたのです。

パウロにとって、今日のアンティオキアを始め、伝道旅行の各地は、同胞が福音の業を行っている愛する場所だったことでしょう。

 

さて、このパウロは、登場当初「サウロ」と呼ばれていました。

この「パウロ」と「サウロ」という2つの呼び名。この呼び分けを意識したことはありますか。

 

先週まで「サウロ」として登場してきた男は、今回の箇所以降、「パウロ」と呼ばれます。

このパウロという名前は、ヘブライ語名サウロのギリシャ語名となったものです。

なぜ、サウロではなく「パウロ」としてその活動が報告されていくのか。

それは、このさきのパウロの歩みが、異邦人への宣教となっていくからです。

パウロ自身はユダヤ人ですが、同時にローマの市民権も持っています。

だから、ローマの支配する世界を行き来し、その地域に住む人々に「パウロ」として福音を述べ伝えていったのでした。

 

このパウロは、今触れたように、ユダヤ人です。

イスラエルの民・ユダヤ教徒として、もともとはイエス派を迫害するものでもありました。

しかし、「サウロ」としてある意味「熱心」なユダヤ教徒として歩んできた彼は、イエスと出会い、

ユダヤ人だけでなく、異邦人のもとへも使わされ、「パウロ」として言葉を紡いでいくのです。

パウロがローマの市民権を持っていたが故にできたことでもありました。

 

しかし、パウロの言葉は、異邦人だけを対象にしたものではありません。

むしろ、どんなときであっても、まずは同胞であるイスラエルの民へとその言葉は向けられています。

同胞を切り捨てて異邦人へと視点を向けたのではない。

どんなときも、いつもまずは、同胞へ福音を告げることを大切にしていました。

 

今日の箇所で語られている言葉もまた、アンティオキアという地で生きるイスラエルの民、ユダヤ教徒たちへと向けられた言葉でした。

パウロはバルナバとともに、アンティオキアのユダヤ教の会堂にやってきました。

当時のユダヤ教の礼拝は、シェマー・イスラーエール「おおイスラエルよ」と始まり、祈祷・聖典の一部である律法と預言書からの朗読・奨励の言葉によって成り立っていました。

この日もまた、いつものように礼拝が守られていました。

 

その会堂の長老たちは二人をよそからやってきたラビ・宗教的指導者だと思ったのでしょう、奨励の言葉を求めました。

それを受け、パウロは語りだします。

 

「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。 」

 

神を畏れる人々とは、ユダヤ人以外の会堂に集まり礼拝を守る人々のことです。

ユダヤ人と異邦人の神を信じる者たちへ語りだします。

 

パウロの言葉は、まず、イスラエルの歴史について触れていきます。

ユダヤ人が信仰の真偽をめぐって論じ合う時、奇跡や力を見せつけるのではなく、歴史に訴えて論じると言われています。

自分たちの背負っているイスラエルの歴史は、神の救済の歴史であり、神の行為の積み重ねです。

ここでもその作法に則って、パウロは神が共におられた記憶を呼び起こすのです。

 

まず、出エジプトの物語を思い起こさせます。

神は圧政に置かれていたイスラエルの民をエジプトから導き出し、40年もの荒野での歩みを守られました。

しかしその荒野での歩みは、民たちの反抗と神の忍耐の歩みでもありました。

 

出エジプトの物語は、ユダヤ人にとって、信仰の支柱です。

「エジプトから民を導き出した神」こそが、「バビロン捕囚から解放された神」であり、

「我々を救い出してくださる神」だからです。

 

40年の旅を経て、神は約束の地を相続させ、民族の指導者である士師を与えました。

さらには、人々の王を求める声に応えて、神は王を与えたと言います。

 

まず、サウロをたてます。

そして、民族指導者であるサムエルに神が与えた言葉通り、エッサイというものの子で神の御心にかなうものであるダビデを選びだしたのでした。

 

出エジプト記で描かれる、反発的な態度をとってもなお、見捨てることなく導き続ける神。

サムエル記や列王記で描かれる、愛する民からの願いに応じて「王」を与える神。

それらは皆、寛容な神の姿、そして、約束に誠実に従う神の姿勢です。

 

その姿は、今、イエスのおとずれによっても証しされています。

 

ダビデは神にこう祈りました。

「勝利を与えて王を大いなる者とし/

油注がれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで/慈しみのうちにおかれる。」

サムエル記下22章51節の言葉です。

 

この祈りを、イエスという救い主をこの世に置かれる形で、神は聞き届けました。

 

神はイスラエルを解放し、約束の土地を征服するのを助け、ダビデのような指導者を与えました。

ダビデ王の血筋を引くものとして、そして約束の成就としてイエスをこの世に与えました。

神はイエスによって、人々を罪から解放します。

このように、神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。 

 

しかし、イエスのおとずれを語る前に、洗礼者ヨハネについて言及されています。

ヨハネが伝えた「悔い改めの洗礼」は、当時のユダヤ人たちにとって画期的なものでした。

ユダヤ人であっても、ユダヤ教徒として生きる上で「改心」が必要としたからです。

 

ヨハネの言葉は広く受け入れられました。

多くのユダヤ人から尊敬され、その名声は広く知れ渡っていました。

同時に、ユダヤ人たちから、メシア・約束された救い主であってほしいと期待もされていました。

それはルカ福音書の20章で律法学者たちも認めています。

あまりに多くの支持を得ていたため、イエスに食って掛かるようにして論争する律法学者たちさえも、一目を置かざるを得ませんでした。

 

しかし、この民衆からの期待は、ヨハネ自らによって否定されます。

 

『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。

その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』

 

ユダヤ人たちから強く支持されたヨハネは、自分の後から来られる方こそ、会衆が期待している存在なのだと語りました。

自分の後から来られる方、それこそが、救い主であるイエスでした。

 

こうして、ダビデの祈りによる神との約束は、イエス・キリスト、神のひとり子を通して成就されたのです。

 

このようにしてパウロは、出エジプトの出来事を振り返り、ダビデとの祈りの約束を想い起こし、ヨハネの証を取り上げてきました。

すべて、神を信じる民からの神への願い、そして、神との約束の記憶です。

 

旧約で約束された事柄を実現させ、神は約束に従うものであるということを、イエスを遣わすことによって証しした神は、

長大な歴史の中で常に働かれてきたこの神は、

当時のパウロたちの宣教の歩みをも守りました。

 

そして、旧約から引き継がれてきたすべての要素がつながりあって、イエスの姿によって、神の救いの全体像が示されています。

アルチンボルドの絵のように。

イエスによって救いは完成された。この喜びは、今を生きる私たちにも臨んでいます。

 

 

祈りましょう。

 

いつの時代も働かれている全能の神さま

あなたのみ名を賛美します。

あなたは、出エジプトの時代、圧政の中から民を救い出してくださいました。

時に迷う不安定な民を導くために、指導者である士師を遣わせてくださいました。

さらには、祈りに応えて、王をも選び与えてくださいました。

あなたはいかなる時代にあっても、人々の祈りを聞き、受け止めてくださいます。

あなたは広く深い懐によって私たちをいつも受け入れてくださっています。

その計り知れない大きな愛に感謝いたします。

 

そして、主イエスを遣わし、旧約の時代に語られてきた救いの約束を果たされました。

こうしてあなたは約束に従うことで、

わたしたち人間への愛をこんなにも強く示してくださいました。感謝いたします。

 

あなたはどんな時代にあっても、常に働きかけ、人類を見守り、導いてくださいます。

どうかあなたからの働きかけに誠実に応えるものとして歩ませてください。

 

パウロの長大な旅路を守られたように、三木教会に連なるわたしたちの歩みも守ってください。

あなたの愛の証たるイエスの歩みに倣って、私たちがあなたの愛を証していく道具として歩むことができますように。

 

アーメン。