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わずかなパン種

招 詞:エレミヤ書 23:24

賛美歌:50 番・456 番・476 番

交読文:詩編 52:3〜9

聖 書:ガラテヤの信徒への手紙 5 章 2〜11 節

 

皆さんパンは好きですか。

私は大好きです。

ほぼ毎朝、朝食はパンを食べています。

ふわふわのパンを作るには、なくてはならないもの。

それは、パン種です。

パンを作るには、イースト菌や酵母、

いわゆる「パン種」がないと膨らみません。

私は本格的なパン作りはしたことありませんが、

無印良品で売っているナンをよく作ります。

ナンの成分表にも、パネトーネ原種という酵母が含まれています。

なので、手でしっかりとこねてから10分寝かせると、

一回りほど大きくなっているのです。

これを伸ばして焼くと、そとはカリッと、

でももっちり、生地の厚いところはふわふわ。

とっても美味しいんです。

もっちりふわふわ。

それも、パン種あってのものです。

 

【種無しパンのはなし】

しかし、出エジプトのとき、イスラエルの民は、

酵母の入れない、パン種のはいっていないパンを持って、エジプトから出ました。

神がモーセを通して、酵母を入れないパンを作るように言ったからだと伝えられています。

 

だから、このときのことを覚えて、

その後も神へ供物として捧げるとき、過ぎ越しの祭のときは、

酵母を入れないパンを用意してきました。

 

ごく少量でも酵母がまじってしまうと、

みるみるうちに発酵してしまいます。

そうして発酵していくことは、腐敗の象徴とも思われていました。

酵母の入ったふわふわのパンは、

神にささげるには相応しくないものだったのです。

それに対して、

酵母を入れないパンは純粋で清いものと考えられていました。

 

このようにしてパン種の入らない、

酵母を入れないパンが重要視されてきました。

新約聖書でも、パン種が入ることを

あまりよい例えとしては用いていません。

 

今日の箇所でも、パン種が出てきます。

「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」(5:9)

パンを捏ねているものにもわからないような

ほんのわずかなパン種。

でも、それがまじってしまうと、

ひとたまりに生地は膨らんでいくのです。

 

このパン種のたとえは、

悪い考えが混じってしまう警告として語られました。

今日の箇所のパン種とは、割礼のことです。

 

【割礼のはなし】

割礼は、ユダヤ教でも広く行われてきた、

また今も一部で行われている宗教的儀式の一つです。

生まれて間もない赤ちゃんのうちに、性器の一部を切り取るものです。

この割礼は、神との契約のために必要なものと考えられていました。

ユダヤ人である、神の民である証明であり、

律法を守り生活する者であることの証です。

だから、ユダヤ教徒であるためには、

とても重要な儀式なのです。

 

この「割礼」という儀式を、ユダヤ人の多くは受けていました。

生まれからユダヤ人である人にとっては、当然のように受けているもの。

しかし、生まれがユダヤ人ではない人にとっては、受けてこなかったもの。

キリスト教と今は言えども、もともとはユダヤ教のキリスト派です。

そのため、キリスト派に属するユダヤ人の中には、

ユダヤ教徒となるためには割礼が必要だ、と主張する人たちもいたのです。

神と出会って、信仰を持って歩むのならば、割礼をすべきだ、と。

 

そういった主張に対して、パウロは言います。

「もし割礼を受けるなら、

あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」(5:2)

 

成人してキリスト派に属しようとしようとしているものたちに、

わざわざ割礼をする必要はないとパウロは言います。

パウロ自身、もともとは熱心なユダヤ教徒ですから、

割礼の重要さをよく知っていました。

割礼せずに神の民となることなどできないと考えていたでしょう。

 

「割礼」を問題にすると、

今を生きる私たちにはあまりピンとこないかもしれません。

でも言い換えてみると、それは、律法で重要としてきたことを、

いわば伝統的に重要視してきたことを覆すものです。

 

【”こうすべき”とすること】

キリスト教もまた、この数千年の歴史の中で、

パウロの言葉を特別視してきています。

パウロの解釈を神の言葉のように考えてきている側面があります。

 

例えば、コリントの信徒への手紙にはこのような言葉があります。

「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、

頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。」(1コリ11:5)

「男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、

自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。

長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。」(1コリ11:14-15)

 

髪の長い男は恥なのでしょうか。

女は頭に物をかぶらなくては侮辱しているということでしょうか。

髪の長くない女は、神に祈るものとしてふさわしくないのでしょうか。

 

パウロはこれらの言葉を、当時の社会において、

争いを諌めるために語り、手紙に書きました。

しかし、それから何百年ものとき、

パウロの奨めは、神の命令のように扱われてきました。

女は髪が長いのが当然。

女は男に仕えて当然。女は祈るとき被り物をして当然。

「こうすべき」という解釈は、長い時間をかけて伝統になり、

「こうあって当然」として考えられていきます。

 

この「こうすべき」というこだわり方は、

パウロがいた当時「割礼を受けて当然」としているものたちの主張とも

共鳴するところがあるでしょう。

 

【神の恵みについて】

しかし、パウロはイエスと出会うことによって変えられたのです。

神の恵みは、割礼を受けるから得られるわけじゃない。

神の恵みは、律法をたくさん守った人に多く与えられたりするわけじゃない。

 

神の恵みは、個人の人間の業績によって与えられるものではありません。

神の恵みは、先天的な才能によって与えられるものでもありません。

神に義と認められることを求めて律法を守るのなら、

むしろ神の恵みを失ってしまいます。

 

パウロはイエスと出会って知ったのです。

むしろ、

神の恵みは、すべての人に当然のごとく注がれていること。

 

割礼を受けていても、受けていなくても、

皆受け取るものです。

髪が短くても、祈りの時に被り物をしなくても、

等しく神の恵みは与えられています。

 

イエスは、すべての人が救われるために、

この世へと神が送られました。

そして、イエスはすべての人のために、

十字架にかけられ、さらには復活されました。

それはすべて、神が人間を愛しておられる証です。

 

【恵みを受け取るとは】

だから、パウロは言います。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、

割礼の有無は問題ではなく、

愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5:6)

 

恵みを受けている人々にとって重要なのは2つのことです。

一つは、神からの恵みを、

感謝と喜びを持って受け取ること。

 

一つは、神からの恵みに応えて、

どのように生きるのかということ。

 

まず第一に、

感謝と喜びをもって受け取ることです。

それは、だれかと比べたり、優劣を競ったりするものではありません。

自分のしたことを讃えたり、

あるいはだれかを貶めたりするものではありません。

ただ素直に、その恵みに喜びをもって感謝して受け取ることです。

 

そして第二に、

神からの恵みに応えてどのように生きるのか、ということです。

愛の実践を伴う信仰こそ大切だとパウロは言います。

信仰とは、神の恵みに応える歩みのことです。

だから、パウロは、

ただ「信じる」というだけではないと言います。

「愛の実践が伴う信仰」と言います。

愛の実践とは、キリストに倣い、キリストに従うことです。

そういったキリストに倣った、

愛に基づく行動あってこその信仰だと言うのです。

 

【愛の実践が伴う信仰】

この愛の実践が伴う信仰とは何か。

パウロは、「愛によって互いに仕えなさい」(5:13)と奨めます。

そして、イエスが語ってきたように(マタイ22:39、マルコ12:31、ルカ10:27他)、

「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という

一句によって全うされる」(5:14)と言います。

 

「隣人を自分のように愛しなさい」

それは、旧約の時代から引き継がれてきた大切なものです。

キリスト教の根っこを形成するものです。

 

一番基本的なもの、でもそれが蔑ろにされてしまいそうになっている。

ほんのわずかなパン種である「割礼」の問題によって、

ガラテヤ教会内の歪みは膨れて、

本来大切にすべきもの、神の恵みと信仰を見失っていました。

「こうあるべき」という外面ばかりを気にして、

その本質の部分を忘れてしまうのです。

 

外面の問題にばかり目を向けて、本来のことを忘れてしまう。

このガラテヤ教会の姿は、私たちの内に潜む姿でもあります。

 

クリスチャンならこうあるべき、男なら、女なら、こうすべき。

その「こうあるべき」という考えは、

本当に神の恵みを受けるに関わるものでしょうか。

 

もう一度いいます。

 

神の恵みは、すべての人に等しく与えられています。

 

だから、神の恵みを与えられている私たちがすべきことは2つです。

一つは、神からの恵みを、感謝と喜びを持って受け取ること。

そして、神からの恵みに応えて、どのように生きるのかということ。

 

神の恵みに応えて、愛を行うものとして歩むものでありたいと願います。

 

 

 

 

 

祈りましょう。

愛の源であり、恵み深き神さま、あなたのみ名を賛美します。

あなたは、いつもいかなるときも、

かわらぬ豊かな恵みを私たちに注ぎ続けてくださっています。

あなたの大きな恵みに感謝いたします。

しかし、わたしたちはときに、外面のことばかりにとらわれ、

本当に大切にすべきもの、

あなたの愛に応えることを忘れてしまいそうになります。

どうか、周りの情報にすぐに囚われてしまう私たちを憐れんで下さい。

そして、どんなときであっても、

あなたの恵みを素直に受け取れるよう、

真っ白な心を与えてください。

そして、あなたの愛に応えるものとして、

隣人を愛し、隣人に仕えるものとして遣わしてください。

アーメン。