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神の家

聖 書:テモテの信徒への手紙一 3章14〜16節

賛美歌:14番・51番・509番

 

 

 

テモテへの手紙は「テモテ」というパウロの愛した友に宛てた手紙として書かれています。

個人宛の手紙という形式から、牧会書簡とも呼ばれているものです。

しかし、実際、この手紙はパウロが書いたものではないと最近は言われています。

それは、パウロのいなくなった後の世界で、書かれたものだと言われています。

 

パウロからの手紙だとしたのは、

パウロの言葉とすることで、分裂しそうになっている教会を一つにしたかったから。

 

パウロの書いた手紙の多くは、各地の教会で回覧され、その解釈が共有されていました。

パウロの手紙集・書簡集のようなものは、キリスト教の比較的早い段階でできていたのです。

そうしてパウロのキリスト理解は各地で読まれ、大切に受け継がれていきました。

 

しかし、パウロ本人が書いた手紙の中では、はっきり断言せず、あいまいな部分も多くあります。

例えばある手紙では「結婚すべきだ」と言っていたことが、

違う箇所では「結婚しないほうがよい」と言っていたり。

 

パウロの死後、時間がたっていくと、ちいさな「あいまいな言葉」は共同体に歪みを生みました。

結婚すべきなのか、そうじゃないのか。

肉を食べていいのか、そうじゃないのか。

その結論がはっきりしない。

初代教会では意見が割れたり、異なる教えを語る人が現れたりしていました。

 

先週はパン種の話をしましたね。

小さなパン種が入り込むと、それは生地全体をふくらませる。

初代教会の中では、異なる考えや解釈といった「パン種」がまざり、

それは膨れて、分裂してしまいそうになっていたのです。

 

それを見て、このままじゃいけない。

そう思って筆をとったのが、「正統派」のパウロの教えを守る人たちでした。

パウロが本当に残した解釈や教えのはそれじゃない。

回覧されているパウロの手紙のあいまいな部分の結論を「こうだ!」と提示しよう。

そういった思いによって、今日のテモテへの手紙は書かれました。

 

このような、分裂を阻止しようと、間違った解釈を改めさせようとする思い。

その思いが反映されていますから、結構はっきりとしたことを言います。

 

二章では、社会の中で上に立つもの対して、どうあるべきか。

また「男」と「女」はこうあるべきだ、ということが語られます。

三章では、監督者と奉仕者のあるべき姿について語られます。

 

読んでいくと、ウッとくる言葉もあります。

例えば2章11−12節。

「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。

婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。

むしろ、静かにしているべきです。」

 

当時の共同体の中で、女性たちの一部は、結婚を否定し、肉を食べないように教えていました。

でも、結婚は完全に否定すべきものではないし、

どんな食べ物でも神が作ったものだから聖いのだと正統派の人たちは考えました。

だから、女性たちの解釈を退けようとしたのです。

 

このようにして、意見が割れて分裂しようとしている共同体に、

社会の中・家庭の中・教会の中でのあるべき姿を示そうとして紡がれた言葉。

それは、具体的な意見が割れていたことに対する回答でした。

 

社会の中・家庭の中・教会の中でのあるべき姿を示した上で、

信仰を持つものとして、中心に置くべきものを著者は語ります。

それが、今日の箇所です。

 

「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」。

 

神の家とは、ざっくり言うと神殿とか、教会とかを意味します。

しかし、この家を意味する単語の「オイコス」は、

家族や家系、あるいは国民といった意味も持つ言葉です。

神の家でどのように生活すべきか、という言葉は、

教会でどのように生活すべきか、

神の家族としてどのように振る舞うべきか、

神の民としてどのように生きるべきかが問われているとも言えるのです。

 

そして、この神とはいったいどういう存在なのかが語られます。

私たちを包みこむ神とは、真理の柱だといいます。

あるいは真理の土台でもあると言います。

 

柱・土台、どちらも家造りに欠かせないものです。

家の大黒柱、なんて言葉がありますよね。

民家の土間と床との境の中央に立てる、特に太い柱のことです。

この大黒柱がないと、建物が安定しません。

 

土台も家造りには欠かせません。

日本には木組みという技術があります。

古いお寺や神社の多くは、この技術によって造られています。

釘や金物に頼らず、木を一つ一つ組み合わせて建物を造り上げます。

 

組み込まれた土台、全体を支える大きな大黒柱。

そうして建立した建物は、風雨にも、地震にも負けません。

何百年もの間、しっかりとその土地に立ち続けるのです。

 

私たちクリスチャンにとって、神さまとはそういった存在です。

神さまの存在は、揺るぐことのない柱であり土台。

そんな柱であり土台がわたしたちの信仰を、さらには教会を支えているのです。

 

では、この柱であり土台たる神の真理とはどういったものでしょうか。

 

信心の秘めたる真理とは、この手紙の著者はこう賛美の言葉を置いています。

「すなわち、/キリストは肉において現れ、/

“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/

異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/

栄光のうちに上げられた。」

 

ここで語られるようなキリストの姿を、

聖書学の用語で「謙卑」と「高挙」と言ったりします。

「謙卑」とは、へりくだり に いやしい という字を書きます。

わたしたちの神さまは、

神から見たら小さな存在に過ぎない人間に、わざわざなってくださった。

神の子にもかかわらず、人としてお生まれになったイエス。

そして、人として生き、人として苦しみ、人として痛みを負い、

人として無残にも殺されていった。

死んでいった。

この、受肉し、人として生き、人として死んでいった姿を、

「謙卑」というのです。

 

もう一つ、「高挙」とは、高く挙げられる、と書きます。

神の子イエスを、神は死んだままにはさせませんでした。

神は、イエスを死から復活させ、人々に復活を証しさせました。

そしてイエスは、天へと昇り、神の右に座られているとわたしたちは信じています。

このようにして、神が復活と昇天によって救いを完成されました。

さらに、神の右に座るということで、イエスをあらゆる権力の上に置いたのです。

全人類の統治者であり、神のあらゆる権力の代行者としました。

神の右に座して、神と共に世界の統治者となる。

それが「高挙」といわれるものです。

 

「神はそのひとり子をお遣わしになるほどにこの世を愛された」。

このような「謙卑」と「高挙」は、神がこの世界を愛された証です。

そして、世界中の人々を救いに導くためのものでした。

 

イエス・キリストによって証しされた神の愛は、

多くの人に宣べ伝えられていきます。

ユダヤ人だけでなく、異邦人にまで。

そして、世界中の人々へと。

こうして、世界中に神の救いがおよんでいくことを神は願われています。

 

今日の手紙の著者が語ろうとする信心の秘めたる真理とは、

キリストの「謙卑」と「高挙」によって証しされた神の愛です。

そして、このようにして「謙卑」と「高挙」によって愛を証しした神こそが、

わたしたち信仰共同体の柱であり、土台なのです。

 

強固な柱としっかり組まれた土台を持つ家は崩れることはありません。

時に、強い風雨にさらされたり、台風が来たり、地震が来ても、立ち続けます。

わたしたちの信じる神は、「愛」という強固な柱と土台のような方です。

どのようなことがあっても、その柱は倒れることなく、土台は揺るがない。

時に、私たちが自分の信仰にゆらぎが生じたとしても、

時に、私たちが神の御心と離れることをしてしまったとしても、

時に、私たちが神を見上げることを忘れてしまったとしても、

神の愛は揺らぐことなく、私たちを支え続けているのです。

 

では、これだけの強固な愛を示されている神の民として、神の教会として、

どのように私たちは歩むべきなのでしょうか。

どのように、神の家で生活すべきなのでしょうか。

 

この後の4章からも、テモテへの手紙の著者は、

こうあるべきだ、と自身の解釈を展開させていきます。

それは、この著者にとって、

また「パウロからの手紙」として受け取った当時の教会にとって、

キーとなる生活規範となっていきます。

それらの言葉は、ときに今の時代にそぐわない部分もあるでしょう。

でも、その根本は変わりません。

なぜなら、わたしたちの土台は、揺らぐことのない神の愛に成り立っているからです。

 

著者のつむぐ、神の家での生活の基本となる、根っことなる言葉が響きます。

「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」

そして、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」

 

今、神の家・神の教会に生きるわたしたちもまた

言葉と行いをもって、愛と信仰を証するものとして生活するように、奨められています。

 

 

 

祈りましょう

わたしたちの柱であり土台となる愛を築かれた神さま

あなたのみ名を賛美します。

あなたは、ひとり子イエスをこの世に遣わし、

謙卑と高挙によって愛を証されました。

どのようなときにあっても、

揺らぐことのない愛をもってわたしたちを支えてくださいます。

この計り知れない愛に感謝いたします。

しかし、わたしたちはときに、あなたのからの愛を忘れてしまうことがあります。

信仰がゆらぎ、神さまはどこにいるのか、と顔を伏せてしまうこともあります。

どうかそのような弱いわたしたちを憐れんでください。

そして、深い慈しみをもって、

あなたの光が注がれていることに気づかせてください。

あなたに結ばれ、あなたの愛を知り、あなたを信じて歩むものとして

あなたの御心にかなう歩みができるよう導いてください。

信仰を守り抜き、あなたの御前に立つ日を待ち望みます。

どうかそれまでの歩みが、

神の家にふさわしいものでありますように。

アーメン