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愛をもって仕える

聖 書:エフェソの信徒への手紙5章21〜6章4節

宣教題:愛をもって仕える

 

 昨今では、男女平等だったり、ジェンダーレスと言われ、一昔前のように「専業主婦」と「亭主関白夫」といった構図が全てではなくなっていると思います。みなさんのご家庭だとどうでしょうか。例えば我が家は、夫婦共働きですし、家事は分担制、育児も分担制。私の立場は夫に「尽くす」のではないし、夫の立場も「手伝い」ではありません。お互い補い合うように努力しようと二人で話しています。

 しかし一方で、聖書の「家庭訓」と呼ばれる箇所が、長年大切にされてきました。家庭訓は、家庭の訓えと書きます。夫・妻・子の立場について語る箇所です。中でも、「夫はこうありなさい」「妻はこうありなさい」と語る箇所は、今を生きる私たちに違和感を感じさせる、いえむしろ、違和感を感じてほしい箇所でもあります。

 しかし、夫と妻の役割、それを聖書が「こう」と言ってしまう。長い歴史の中で、人々は女性蔑視や男尊女卑を「当然のこと」として、意識的/無意識的に受け入れてきました。もしかしたら、その感覚を今も私たちは持っているかもしれません。

 

 今日の箇所を読み解いていくために、2つのことを念頭に置いておきたいと思います。一つは、今日の聖書の言葉が紡がれた歴史的な背景、もう一つは、その言葉の宗教的な背景です。

 まずは、歴史的な背景について考えてみましょう。わたしたちの持つ聖書は、家父長制と男尊女卑の社会の時代に、男性たちの手によって書き記されてきたものです。当然、男性優位な考え方が蔓延しています。そしてそれは、ときに、女性の立場を弱くさせ、女性を蔑ろにしていい理由として挙げられてきました。今日の箇所もまた、その一つです。

 

 今日の箇所が書かれた時代、哲学者たちは家庭が小宇宙で、社会の基本形だと考えました。アリストテレスは「家の最小で始原の部分が主人と奴隷、夫と妻、父親と子どもである」と語っています。当時の感覚では、主人/夫/父親である世帯主が適切に家を治めることができたなら、神によって意図される調和を結果として反映すると考えたのです。いい主人であり、いい夫であり、いい父親であることは、当時の社会の中で重要視されました。世帯主はあらゆる面で責任を持たなければならないのです。

 次に、もう一つの今日の言葉の宗教的な背景を考えてみましょう。夫婦のモチーフは、神とイスラエルの関係として、旧約聖書のころから大切にされてきました。神がイスラエルと選んで妻としたというテーマは、預言書の中で何度も現れます。出エジプト記の中では、神とイスラエルの民との契約がシナイ山で行われたのですが、ユダヤ教の指導者たちは、この契約の出来事を、結婚になぞらえて褒め称えました。

 書かれた当時の社会では、家庭のありかたが社会の基本形とされていたこと、また旧約聖書の時代から、神とイスラエルの関係を夫婦や婚姻をモチーフにして語ってきたことを確認しました。では、この2つのことを踏まえつつ、今度は単語に注目してみましょう。妻と夫、それぞれに課される命令である、「仕えなさい」と「愛しなさい」

の単語です。

 

 「仕える」の単語[hypotasso]は下に置く、従属、従順、服従といった意味を持ちます。しかし、このhypotassoは、押さえつけるような支配を意味するものとは少しニュアンスが違います。むしろ、パウロはこの言葉を、神という「絶対的な存在への屈服として用いています。「仕える」側が畏れをもって従属する。エフェソの信徒への手紙」は、パウロの影響を強く受けた著者によって書かれていますから、ここでも、「神」という絶対的な存在への屈服というモチーフは受け継がれています。22節で「主に仕えるように」、24節で「教会がキリストに仕えるように」とあるように、キリスト者は神とキリストに服従するものだと著者は語るのです。

 この従順のモチーフを、妻へ夫に対する態度として求めます。父権制社会の中で、その社会の縮図としての家庭において、女が世帯主に従うことは、当時の社会の中で当然のことでした。だから、当然のように、「妻もすべての面で夫に仕えるべき」と語っているのです。

 

 一方、「愛する」の単語[agapao]は、愛するだけでなく、尊敬、忠実といった意味も持ちます。イエスが「愛しなさい」と命じる時に用いられている単語でもあります。しかし、この愛するは簡単なものではありません。この愛は、友情の愛でも肉体的な愛でもなく、無償の愛です。それはどのような愛なのでしょうか。

 今日の箇所で夫は、「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(5:24)と命じられています。妻側に言う「仕える」に対して、夫側には「愛する」ように言います。でもそれは、「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」。「愛する」の単語の意味からも、そんな単純ではないことがわかります。

 神はその一人子であるイエス・キリストをお与えになったほどに、この世界を愛されたことを私たちは知っています。キリストは病人を癒やし、社会から疎外された人をこそ招き、その膝をついて足を洗い、すべてを通して「愛する」仕方の手本となられました。そして、キリストは拷問と十字架にかけられる苦しみと痛みを負ってまでも、わたしたちの救いのために、わたしたちの命のために尽くしてくださった。それほどまでにも人間を、わたしたちを愛された、それがわたしたちの救い主です。そのような「キリストのように」愛せと語るのです。

 キリストのように愛するのが難しくとも、「自分の体のように」であれば、まだ実現が可能かもしれません。今日の箇所にも、「自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」ともあります。さらには、創世記2章24節、男と女が造られたときの言葉が語られます。「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」。神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創2:18)と言って、女を造りました。人間は、造られたときから、独りでは生きて行けず、また、だれかの助けがあり、だれかを助ける者として歩むようにされています。その中で夫婦となることは、一体となる、一つとなること、一つの体となることです。自分の体を愛する、大切にすることに見返りは求めません。「妻を愛する人は、自分自身を愛している」自分の一部だから、当然大事にしようとすることでしょう。だから、妻を自分の体のように愛するのは当然のことなのです。

 

 ここまで、妻は夫に仕えること、また夫が妻を愛することについて見てきました。書かれた当時の家父長制の社会がその背景にあるため、妻が夫を立てるような上下関係こそが「正しい」ように描かれていました。しかし、今一度「仕える」と「愛する」を見て、想い起こしてみると、この2つはそこまで対局にあるものなのでしょうか。

 今日与えられた箇所のはじめ、5章21節の言葉がよみがえります。「互いに仕えあいなさい」。「互いに」仕え合うようにと著者は勧めています。妻だけが「仕える」もので、夫だけが「仕えられる」ものではありません。家庭の中においても、主の家たる教会の中においても、人との関わりの中であっても、相互の関係が大前提となっているのです。互いに仕え合う、それは、相手を敬い、また相手を愛することに他ならないのです。

 

 家庭訓の箇所を読むと、額面通りにぶつかってしまいそうになります。表面だけをみるのではなく、その芯の部分となること、水脈のように見えぬそこに流れるものに焦点を当てる時、そこには愛の神に従うものとしての姿が浮き出してきます。愛をもって仕える。家庭という小さな社会の基本形の中で、さらには、主の愛された教会の中で。愛をもって仕える、そのふるまいは、相手を敬い、無償の愛をもって尽くすことなのです。そのように生きることによって、生きようとすることによって、私たちクリスチャンは神の愛を証しし続けて歩むのだと信じます。

 

愛の源である神さま

 あなたはキリストをこの世にお与えになったほどに私たちを愛されました。そして、キリストを通して、無償の愛を、仕える在り方を証しされました。今、この世界に生きる私たちもまた、あなたの愛を受けて生きています。どうか、私たちがその愛に応え、私たちをも愛をもって仕えるものとして歩ませてください。家庭の中で、教会の中で、互いに仕え、互いに愛し合う関係を大切にできますように。アーメン。