主日礼拝宣教

他のものに乗り換えてみる?
主日礼拝宣教 · 18日 9月 2022年
キリストの恵みは、神から人間すべてに与えられています。しかし、ガラテヤの人々は、「偽の福音」に惑わされてしまいます。それは、神の恵みを受けるためには律法や割礼が必要だというものでした。律法を守らなければ、割礼を受けなければ救われないという教えは、すべての人に等しく与えられた神の恵みを否定することに他なりません。イエス・キリストによって自由な存在とされた人間を、再び縛り付けることです。恵みを受けるために条件があるなどと言いはることは、人々を傲慢や争いに向かわせます。そうあってはいけない。すでに、恵みは与えられています。私利私欲のために、恵みの条件を設置し、福音を捻じ曲げることは絶対にしてはいけないことです。むしろ、神からあるがままに愛され、無条件に恵みを受けていることを知り、その喜びにどのように応えて生きていくのかが問われているのです。
決して滅びないもの
主日礼拝宣教 · 11日 9月 2022年
しかし、この神から与えられている「霊の賜物」を豊かに受けるには、「愛がなければ」意味がないのだとパウロは言います。例えば、天使たちの異言、天上の神に近いものの声であっても、そこに「愛がなければ」やかましく響くどらやシンバルでしかありません。預言や神秘といった特別なことが霊の賜物によってできても、奇跡を起こすような信仰を持っていても、「愛がなければ」価値はありません。さらには、施しをしたり、奉仕をしたとしても、そこに「愛がなければ」外から見てどれだけ特別なことをしていたとしても、それはすべて無価値なものとなってしまうとパウロは言います。

光と定められたから
主日礼拝宣教 · 04日 9月 2022年
今日は三木教会の創立記念礼拝ですね。三木教会がこの三木市という地域の中で伝道を始めて、今年で67年を迎えます。67年前、三木教会はラクーア伝道によって始まりました。ラクーア伝道は、宣教師のラクーアによって、戦後の混乱が残っている時代に希望を灯すべく、各地で音楽とメッセージが行われたものでした。そのラクーアの活動は、この三木にもやってきていました。
イエスの愛に学ぶ
主日礼拝宣教 · 28日 8月 2022年
年月が過ぎて、いくつかの衝突や痛みを経験して、少し大人になったり、クリスチャンになったりしました。そうして気がつくと、周囲から「怒らなさそうな優しい人」として見てもらえる自分がいました。ずっとなりたかった「穏やかな人」になれた!それは本当に?周りが自分の意見や正義と違っていても、「そういう考え方もあるよね」と受け止める。それは同時に、「こうあってほしい」や「こうしたい」といった希望や願いが希薄になることでもありました。「あなたはあなた」「わたしはわたし」それは、いつしか、無関心を育てていってしまっていました。結局、穏やかな人であることは、無関心で、他人事でいることを良しとする姿だったのです。

愛をもって仕える
主日礼拝宣教 · 21日 8月 2022年
聖書の「家庭訓」と呼ばれる箇所が、長年大切にされてきました。家庭訓は、家庭の訓えと書きます。夫・妻・子の立場について語る箇所です。中でも、「夫はこうありなさい」「妻はこうありなさい」と語る箇所は、今を生きる私たちに違和感を感じさせる、いえむしろ、違和感を感じてほしい箇所でもあります。 しかし、夫と妻の役割、それを聖書が「こう」と言ってしまう。長い歴史の中で、人々は女性蔑視や男尊女卑を「当然のこと」として、意識的/無意識的に受け入れてきました。もしかしたら、その感覚を今も私たちは持っているかもしれません。