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イエスの愛に学ぶ

教会暦:聖霊降臨節第13主日礼拝

聖 書:エフェソの信徒への手紙4章17-32節

 

 私がまだ小学生とか、中学生だったころ、今よりうんと怒りの感覚に敏感だったような気がします。「こうあるべき」という自分の意見であったり、自分なりの正義がありました。そういった意見や正義とぶつかるものがあると、怒ったり、戦ったり、そして傷ついてきました。そんな性格でありながらも、本音は穏やかな人になりたかった。気が強く喧嘩腰に怒りをぶつけるのではなく、感情を大きく揺さぶらず、穏やかに生きる人になりたかった私がいました。

 年月が過ぎて、いくつかの衝突や痛みを経験して、少し大人になったり、クリスチャンになったりしました。そうして気がつくと、周囲から「怒らなさそうな優しい人」として見てもらえる自分がいました。ずっとなりたかった「穏やかな人」になれた!それは本当に?周りが自分の意見や正義と違っていても、「そういう考え方もあるよね」と受け止める。それは同時に、「こうあってほしい」や「こうしたい」といった希望や願いが希薄になることでもありました。「あなたはあなた」「わたしはわたし」それは、いつしか、無関心を育てていってしまっていました。結局、穏やかな人であることは、無関心で、他人事でいることを良しとする姿だったのです。

 大学院生になって、今の夫や教区内のいろいろな人と出会い、関わる中で、ある先生に出会いました。その先生はきちんと怒る人でした。自分の倫理や考え方と異なるとき、「それはおかしい」「それは違うと思う」と相手へ伝える姿。それは、わたしが穏やかになりたくて、捨ててきた姿でもありました。

 怒りを抱かない。それは、どこかで無関心な自分がいること。他人事で済まそうとしている自分がいることです。怒りを抱き、怒ったり、悲しんだりすること。それは、相手や出来事と真摯に向き合って、自分事として背負うことだと思うのです。

 しかし、わたしたちのもつ聖書は「怒りを捨てなさい」と言います。

「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」。怒りを捨てなさい、怒りを持たないことが聖書でいう「良いこと」なのでしょうか。

 聖書全体を思い返してみると、怒りに対して誠実な神の姿を思い出します。怒りは神が抱くものでもあります。詩編をはじめ、旧約の様々な場面で、神の怒りが語られてきました。「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く」(18:8)とあります。一方、イエスは人々を怒って見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながらも、癒やしの業を行いました(マルコ3:5)。では、神は怒りを抱くのに、人間が怒りを抱いてはならないのでしょうか。預言書にはこうあります。「敵を打ち、悪に報いる神が来られる」(イザヤ35:4)。怒る神は、わたしたち人間の怒りまでも受け止めてくださるのです。このように、わたしたちが「主」と信じる方は、怒りそのものを否定することはありません。むしろ、怒りをもって、誠実に目の前のものと向き合ってくださる存在です。

 今日の箇所には次のようにもあります。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」

 ギリシャ語の話し言葉と書き言葉の文法では、命令法は「〜をせよ」という指令だけで使われるわけではありません。「〜しなさい」という要請や「〜でもいい、しかし」というような譲歩を言い表すときにも用いられました。そういった用例をもとに読み直すと、「怒りを制御することができないなら、怒ってもいい。しかし、それによって罪を犯してはならない」となるのです。日が暮れるまで怒ったままでいてはならない、というのは、怒りに取り憑かれて、怒りによって支配されてはいけないことを意味します。

 制御できない怒り、あるいは怒りによって支配される姿を考える時、カインとアベルの物語を思い出します。カインは、アベルに目を向ける神に怒り、アベルに嫉妬し、怒りの感情に支配され、アベルを殺してしまいました。怒りが悪意に変わり、罪を犯してしまったのです。カインのように、怒りに支配される姿は聖書の中の話、ファンタジーではありません。わたしたちの生きる世界にもあり続けています。安倍元首相を殺害した男性も、渋谷通り魔事件の女子中学生も、怒りに支配されていたのだと思います。さらには、テレビの向こう側の話でもない、私たち人間皆が常に抱えている危うさでもあります。

 怒りを閉じこめると、それは発酵して、腐って、膨らんで、漏れ出してしまいます。怒りが憎しみとなって、溜め込みつづけると、それは自らを蝕むのです。「ファウル=愚かな」口から出る言葉は、「ファウレス=腐った」匂いを放ちます。そうして心の中で膨らんでいった怒りや憎しみが、溢れ出す時、罪を犯す。カインがアベルを殺したように。悪い言葉が口から発してしまうように。

 だから、今日の箇所でも、怒りを制御するようにと警告されています。相手を攻撃し傷つけるのではなく、怒りに支配されて罪を犯すのではなく、むしろ「その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語る」ことが求められているのです。

 「その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語る」ことは決して、生易しい言葉を投げかけることではありません。「穏やかさ」という言葉のベールをまとって、無関心と他人事に生きる在り方ではないのです。むしろ、怒りや悲しみといったものにも誠実に、真摯に向き合うことが求められる。「正しく清い生活」=「穏やかな生活」ではありません。「真理に基づいた正しく清い生活」は、決して穏やかでい続けられるものではない。自分事として、関心をもって向き合う時、「その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語る」ことができるのではないでしょうか。そうして歩むうちに「真理に基づいた正しく清い生活」を送ることが叶うのです。「真理に基づいた正しく清い生活」、それはむしろ、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合う」日々の歩みです。

 「互いに親切にし、憐れみの心で接する」と聞く時、イエスが教えられた言葉を思い出します。「あなたがたは敵を愛しなさい」(ルカ6:35)。怒りを覚えるものや相手であっても、憎しみを拭い去ることができなくても、その相手を、敵をも、愛そうとする。それが、どのような相手でも、「互いに親切にし、憐れみの心で接する」ことではないでしょうか。このフィリピ教会の人たちも、また今を生きる私たちも、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えを受けています。そして、真理が、深い神の愛が、イエスの内にこそあるのだと学んでいる、学ぼうとしているのです。 

 わたしたちの信じる神は、わたしたちの怒りを受け止め、御心に適わぬわたしたちであっても、その怒りを沈めてくださいました。わたしたちの信じるキリストは、わたしたちのために怒り、わたしたちにその生き方を示されました。わたしたちの主は、怒りに支配されることなく制御し、むしろそれを憐れみに変えられた方なのです。

 イエスの愛に学ぶ。それは、ただ「穏やかさ」という鈍感なままの生き方ではありません。イエスの生涯は、弱さを抱える人に寄り添い、癒やし、招き、愛する歩みです。その生涯を通して、十字架への道と復活の喜びをもって、イエスは神の愛を証しされたのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)。愛する子を遣わしてくださるまでも、神はわたしたちを愛しておられます。わたしたちは神に愛されている子どもです。「だから、神に倣う者となりなさい」と聖書は招きます。

 イエスの愛に学ぶ。怒りを持つほどまでに自分事として目の前のことと向き合い、それでも怒りを制しつつも、憐れみの心で接するものとなりたいと願います。キリスト・イエスに従い、キリスト・イエスに学び、キリスト・イエスに倣うものとして歩むべく、神は今日も変わらず、聖霊を与えておられます。

 

祈りましょう

 愛の源である神さま

 怒りを制御しきれないわたしたちを憐れんでください。また、怒りを持つことができない無関心な私たちを憐れんでください。どうか、わたしたちが真摯に目の前のことと向き合い、怒りさえも制御して、愛をもって取り組むことができますように、あなたの霊によって励まし、導いてください。

 私たちは聖書を通して、また人々との関わりを通してイエスの愛を学びます。どうかその学びを受けて、実践することができますように。あなたに仕えるものとして隣人を愛し、またあなたへの愛するものとして隣人へ仕えることができますように。

 アーメン