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決して滅びないもの

聖書:コリントの信徒への手紙一12:27〜13:13

 

先週、三木教会では、創立67周年記念礼拝を守りました。67年もの歩みを振り返り、特にその始まりから受け継がれてきた信仰を想いました。受け継がれてきた信仰。それが三木教会を形作っていると言っても過言ではないでしょう。神さまによって導かれ、多くの人の思いが、行いが、この三木教会の歩みを支えてきました。その歩みは、信徒も教師も皆が参加しているものです。

 教会は牧師がいればなんとかなるものではありません。教会に集まる方々は、信徒だけではありません。教師も、信徒も、それ以外の人も、様々な人がつながって、関わって、支え合って、それぞれの土地で、伝道の業を行っている。それが、教会です。

 パウロもまた、「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました」と語りました。教会の中にはいろんな人がいることを皆さんはよくご存知でしょう。得意なこと・不得意なことがあったりしますし、できること・できないこともそれぞれあります。でも、できること・得意なことを活かして、教会に、礼拝に奉仕してくださっています。その一つ一つのできること・得意なことがあるのは、神から「霊の賜物」を与えられているからです。そして、その「霊の賜物」というものは、みんな同じものではありません。それぞれ異なる賜物が与えられて、その一つ一つが補い合っています。例えば、「使徒、預言者、教師、奇跡を行う者、病気を癒す者、援助する者、管理する者、異言を語る者など」が教会にはいるとパウロはいいます。一つの教会にあっても、その教会が歩みを進めていくためには、「霊の賜物」を用いて、様々な側面を支えてくれる人々がいなければ、成り立つことはないのです。

 三木教会もまた、パウロの言うように、いろいろな人に支えてもらいながら成り立っています。掃除をしてくれる方、お花を用意してくださる方、お庭を手伝ってくださる方がいて、司式や奏楽、献金当番を担ってくださる方、教会のことを考える役員を担ってくださる方もいる。主日礼拝をともに守ってくださる方がいて、オンラインからでも覚えて祈りを共にしてくださる方もいる。教会の宣教の働きのため、また会堂の維持のために献金をしてくださる方によって、教会は支えられている。あげていったらもっともっとたくさんあるでしょう。このようにして、三木教会は、神が賜物を与えたみなさんによって支えられているのです。

 しかし、この神から与えられている「霊の賜物」を豊かに受けるには、「愛がなければ」意味がないのだとパウロは言います。例えば、天使たちの異言、天上の神に近いものの声であっても、そこに「愛がなければ」やかましく響くどらやシンバルでしかありません。預言や神秘といった特別なことが霊の賜物によってできても、奇跡を起こすような信仰を持っていても、「愛がなければ」価値はありません。さらには、施しをしたり、奉仕をしたとしても、そこに「愛がなければ」外から見てどれだけ特別なことをしていたとしても、それはすべて無価値なものとなってしまうとパウロは言います。

 なぜ「愛がなければ」何も意味がなくなってしまう、無価値なものとなってしまうのでしょうか。

 それは、愛がなければ、自分自身のためでしかない、自分自身だけを求める行為だからです。

 愛もなく特別な行為をしても、それは自分を誇るため、自分の利益のためにしかつながらないのです。愛のない行いは、だれかにマウントをとったり、ぶしつけな態度だったりしてしまう。「愛がなければ」どれだけいいことをしたように見えても、その内実は、虚しいものでしかありません。

 わたしたちのキリスト教は、愛の宗教、だなんて言われたりもする、「愛」ということをことさら大切にしているものです。イエスが語られた新しい掟として「隣人を自分のように愛しなさい」や「互いに愛し合いなさい」となんども教えられています。 さらには「神は愛です」と私たちは信じています。「神は愛です。」私たちは信じる神そのものが愛なるものだと信じています。 だから 愛がない事は神がいないと同じことなのです。「愛がなければ」何も意味は無い。

 愛がなければ特別な行為も意味がないのであれば、「愛がある」という状況はどういったものなのでしょうか。愛がどういうものなのか、それが4節から語られています。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛があるから、すべての行いが自分ではなく、相手に向かっていきます。神によって愛を宿され、神の目からみて良しとされるものとなっていきます。

 相手に向かう行いとは、忍耐強く、また情け深く、相手と向き合うものです。マウントをとったり、偉ぶったりするのではありません。だれかを蹴落としたり、排除してふんぞりかえるのも違います。神から注がれ、満たされている愛を自覚し、愛を宿すのであれば、確乎として動かぬ態度を造り、ひとりひとりの行動として現れることでしょう。

 では、愛はどこから来るのでしょうか?

 愛は、神から出てくるものです。神によって与えられ、神によって注がれ続けているものです。そして、神がキリストとしてこの世を歩まれ、ご自身を献げてくださった、十字架のできごとにこそ、その愛は証しされています。イエスご自身を捧げられたことによって、私たち人間は、罪を赦されました。それは、弱さや破れを神が抱きしめてくれたこと。こうして、人間は救いにあずかることができています。

 だから、十字架のイエスを思う時、キリストを主として生きる私たちは、その愛を宿らせて歩まないわけがないのです。キリストを信じ、神を信じて生きる。それは、愛を宿らせて、愛を軸にして生きることに他なりません。その愛が紡がれ、それぞれの賜物と結ばれ、教会の歩みが守られているのです。

 「愛は決して滅びない」と今日の箇所は言います。時代の移り変わりによって、変わっていくもの、廃れていくものがあります。建物は老朽化するし、人間は老いていきます。それでも、愛は決して滅びないと聖書は言います。

 愛は決して滅びない。愛は、死によって打ち切られることも、攻撃や迫害を受けて消し去ることもないということです。教会に、またキリスト教につながる私たちは、時代の変化の中でも愛があり続けていることを信じたいと願うものでいたいと思います。

 三木教会には、歴代の信徒がいて、また求道者がいて、いろいろな不思議な招きによってつながった人がいます。その人たちの痕跡を、私たちは知っています。

 わたしは昨年、三木教会に招かれ、結ばれました。前任の家山先生から引き継いだ資料には、教会暦の節目ごとに企画してきた、特別な礼拝の式文があり、礼拝によって分かち合われる「愛」を感じました。教会の資料棚の中には、三木教会のお庭の管理ファイルが出てきました。どんな木が植わっているのか、いつが実りのときなのかが記載されています。この広いお庭に芽吹く花々、実るものたちによって、「愛」の芽生えと育ちを知ることができます。先に赴任されてきた先生方が残してこられたものを見るだけでも、この三木教会に溢れる愛の一片にふれることができました。新先生が30年を記念して置かれた『讃美歌21』。教会の看板は、石川先生がいたころに丁寧に塗られ、嵐によって打ち倒されても再び立ち、教会に来られる方や道を行き交う人を見守っています。一つ一つに、愛されてきたものを感じます。ものにしても、資料にしても、古くなったり廃れていくものかもしれません。でも、それが準備されてきた過程を思い、それを守ってきた歩みを思う時、そこに、愛されてきた、愛をもって奉仕されてきた痕跡を思い出します。そして、滅びることのない愛が、脈々と受け継がれてきた姿を思い出します。

 最も大いなるもの、特別なものは「愛」です。その愛が、今、この地に、またキリストとつながるわたしたちのうちに、育まれています。わたしたちのうちには「愛がある」。だから、神の大きな愛を証ししたキリストに従うもの、倣うものとして生きたいと願うのです。なぜなら、それこそが、愛を宿して、愛を忘れずに生きることだと信じているから。

 「愛は決して滅びない」。滅びることのない愛を受けて、賜物を活かして生きるものでありたいと願います。

滅びることのない愛の源である神さま

 あなたの大いなる愛に感謝いたします。その愛をもってわたしたちを招き、導き、支えてくださることを思います。どのようなときも、「愛は決して滅びない」ことを忘れないようにしてください。あなたからの愛は、尽きることのない、廃れることのないものだと私たちは信じます。だから、その愛を受け、愛をもって生きるものとしてください。滅びることのない愛に支えられ、わたしたちの賜物を豊かに用いてください。

私たちは、あなたの愛につながりながら、これからの教会の歩みを、そして主の宣教の業を共に守って生きたいと願います。受け継がれてきたこの教会につながり、私たちは互いに想い合い、互いに仕え合い、教会の歩みに参与していくことができますように。アーメン