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他のものに乗り換えてみる?

聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章1〜10節

 

 手紙を書く時、文頭や文末にはどのような言葉を置きますか。拝啓・敬具だったり、前略・かしこだったり、日本語の手紙の書き方には作法があったりしますよね。実は、キリスト教でも、手紙やメッセージを書く時に、定型文のような言葉があるのをご存知ですか。例えば、文頭だと「主のみ名を賛美します」や「神さまの恵みが豊かにありますように」、文末だと「キリストの平和がありますように」、主に在ってと書いて「在主」といった言葉です。こういった言葉は、基本的に神への賛美や祈りの言葉となっています。こういった言葉は、聖書の時代から定型化していました。それこそ、今日のような手紙の中で、パウロや他の著者たちが用いてきたものを、今を生きるクリスチャンたちも引用したり、真似たりしているのです。

 さて、今日の箇所は、パウロの書いた手紙の一つ、その冒頭部分です。言葉の始まりも、祈りから始まります。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 わたしをはじめ多くのクリスチャンが定型文を使って賛美や祈りを手紙に書き入れますが、パウロの場合、この「主イエス・キリストの恵み」がなにかについてまず触れていきます。

 「キリストの恵み」それは「わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」(1:4)ことです。「悪の世」とパウロがいうこの世界から、わたしたちを救い出すために、神自らがその身に、人間の罪を負って死なれた、あの十字架の出来事を思い出させるのです。

 十字架の出来事、それは、罪なきイエスが死んでいく姿。そして死に終わることなく、復活されたイエスの姿。あのようにして神は、わたしたちの「罪」といわれるものすべてを赦してくださいました。「罪」の赦しを私なりに言い換えると、それは、「神がわたしたちの弱さも、破れも、足りなさもすべて受け入れてくださった」ということ。わたしたちの神は、どんなわたしも、どんなあなたも受け入れて、愛してくださるという。それが「キリストの恵み」と言われる部分です。

 ガラテヤのキリスト者たちも、このようにして罪を贖う十字架と復活の出来事を聞き、「あるがままを愛されている」という「赦し」の恵みを受けているという福音を告げ知らされました。そして、この福音を受け入れて信仰に入ったものたちがいました。しかし、ガラテヤの人たちに、この赦しの恵みとは異なる教え「偽の福音」が持ち込まれてきました。

 それは、「本当のキリスト者となるためには、ユダヤ人のようにならなければならない」ということ。ガラテヤの人たち、そのままじゃあ神の民にはなれないよ。この恵みを受けるために、赦されるためには、ユダヤ人のようにならなくてはいけないんだ、というのです。

 ユダヤ人のようになる、それは、律法を厳守すること。さらにいうと、「救われるために割礼が絶対必要」ということでした。割礼という宗教儀式は、ユダヤ人の男性であれば生まれてすぐに行われる体の一部を切り取る儀式です。創世記の中で神がアブラハムとの契約の中で「あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」と言われたことを根拠としている儀式です。律法の中にも記されています。当時のユダヤ人にとっては、やらないはずがない、絶対にやるべき儀式となっていました。しかし、異邦人と呼ばれるユダヤ人以外の人であれば、この割礼を受けることなく大人になっている人も少なくありません。このガラテヤという土地も異邦人が多く、ガリラヤ教会は“異邦人教会”とも言われるほどの教会でした。

 そんな教会の中で信仰に結ばれ、キリスト者として歩み始めた人々に、「偽の福音」を告げる人々は、救われるために・恵みを受けるためには条件があると言うのです。「律法厳守」と「割礼」が絶対必要だと言ったのです。

 神の恵みとは、どういったものでしょうか。条件がないと与えられないもの?「あるがままを愛されている」という「赦し」こそ神の恵みだとお話ししました。神の恵みは、律法を守らなければ得られないのでしょうか。割礼を受けなければ、救われないのでしょうか。「あれができていない・これをしていないと赦されない」それは、「あるがままを愛されている」と言えるでしょうか。・・・条件が整わないと、神に受け入れてもらえないのでしょうか。

 イエスは、「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(ヨハネ8:36)と言われました。イエスは、その身をもって人の罪を贖うことで、すべての人間を、縛られているものから自由なものへと変えてくださったのです。イエスによってなされた十字架の出来事によって、神の恵みは無条件に与えられるものとなりました。無条件に、神の恵みは与えられている。「律法を守らなければ神の恵みは得られない」「割礼を受けなければ救われない」というのであれば、それは、神からの無条件の恵みを否定してしまうことになります。旧約聖書で語られてきた契約に縛られること、「律法厳守」と「割礼が絶対必要」ということ。これらは、イエスによって自由にされたのに、その解放を踏みにじって過去の鎖にすがりつくことに他なりません。

 ガラテヤの人々は、「律法厳守」と「割礼の必要」を受け入れ、そのように信仰生活を守ろうとしていました。条件をクリアしないと恵みを受けられない、といった考えに惑わされ、乗り換えていきました。

 こうすれば救われる、こうすれば赦される、なんていうのは、言葉だけ聞けば気楽なのかもしれません。律法主義のユダヤ教徒との折り合いをつける点でも、異邦人キリスト者が周囲に認められるためにも、こう、という条件があるほうが認めやすかったのかもしれません。周囲の人に気に入られるために、先に信じている人に認められるために、だれかに気に入ってもらうために。

 しかし、「割礼を受けているから自分は救われるんだ」、「律法を守っているから、自分は恵みを受けているんだ」。その考え方は、割礼を受けている人と受けていない人の間に格差ができてしまうものです。律法をどれだけ守れているかは、ときに傲慢を生みます。競い合うなかで敵意や争いが生まれ、利己心へと陥ってしまうのです。

 条件によって、救いや恵みが変わるのでしょうか。たくさん良いことをすれば救われるのか。たくさん献金をすれば救われるのか。たくさん礼拝に出れば救われるのか。 いいことをするのも、献金をするのも、礼拝に出ることも大切なことかもしれませんが、それは恵みを受ける、救われるための条件ではありません。でも、そういった条件をクリアしないといけないという。それが、律法や割礼の有無に縛られ続けることです。

 条件化した恵みは恵みなのでしょうか。「あるがままでいい」という愛の赦しはどこにいってしまったでしょう。条件に縛られるような福音は、福音とは言えません。それではすべての人へ与えられている恵みであるはずのキリストの福音は、骨抜きにされてしまいます。キリストの十字架と復活が無意味なものとされてしまうのです。

 「〜してはいけない」といった契約の鎖はすでに砕かれました。条件をクリアすることによって救われるのでも、恵みを得るのでもない。むしろ、もう救いは与えられている。恵みは注がれています。

 だから、恵みを得るために行動するのではありません。恵みを得ているから、行動するのです。恵みは行動の目的ではなく、理由になるものです。そうして、その恵みにふさわしく生きる生き方を自らに問うて歩む、それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。

 キリスト・イエスは言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。キリスト・イエスが愛してくださったから、神が愛してくださったから、私たちは互いに愛し合うよう招かれています。

 キリストの十字架と復活によって、わたしたちの罪は赦されました。弱さも、破れも、痛みも、神が受け止めてくださった。そして、あるがままのわたしたち、すべての人間に恵みをお与えになっています。だから、その恵みを喜びをもって受け取り、どうその恵みの内に生きるのかが問われてきます。

 

 恵み深き愛に満ちたる神さま

 あなたは、ひとり子イエス・キリストをこの世に与え、わたしたちの罪を贖い、弱さを受け止めてくださいました。そして、わたしたち人間をあるがままに愛してくださいました。慈悲深い主に感謝をささげます。

 あなたは、キリストによって古い契約を打ち破り、律法に縛られることのない新しい契約によって、わたしたちを愛の輪へと導いてくださいました。しかし、わたしたちは時に、自己都合のため、保身のために古い契約にすがりつこうとしてしまいます。旧約の言葉を挙げ連ねて、それにふさわしいもの・ふさわしくないものを、愚かにも裁こうとしてしまいます。わたしたちの罪をお許しください。憐れみをもって、わたしたちに新しい契約を思い起こさせてください。そして、新しい契約によって等しく与えられている恵みをうけて、あなたの愛に答える生き方ができますように。アーメン。